退職後の新しい生活をそこそこ楽しむ「ソコタノ日記」です。初出は、 Note.com です。
退職してから写真をよく撮るようになった
退職してから写真をよく撮るようになりました。毎日1時間、散歩かポタリング(自転車での散歩)をするようになり、ちょいと気に入ったモノや風景に出会うと、愛機GR3のシャッターを押しています。
娘と孫が帰省してきたときには動物園に連れて行って写真を撮り、TDLで合流して遊んだときにも写真を撮りました。
撮影した写真は、iPhoneを経由して、妻や娘と共有するようにしています。お互いに見たいときに見たい写真を見ることができるわけです。
孫娘は2歳にはなっていませんが、iPad や iPhone の使い方を見て覚え、写真をスワイプ操作で見たりしています。
簡単に写真を撮り、簡単に見られる……ずいぶん便利な時代になったなぁと年寄りは感じます。
日々の記録や5年手帳に写真を印刷して貼り付ける
私は、毎日、日々の記録をとっています。たすくまを使ってこなしたタスクやひとり Slack に送った記録、Twitter のつぶやき、……そういったものを整理して EVernote Scrapbox Dynalist に保存し、紙に打ち出して日々の記録用のノートにまとめています。また、ダイジェストを5年手帳にも手書きで書いています。記録用のノートは、ごく最近、バイブルサイズの手帳からA4のファイルにシフトしました。
A4サイズに日々の記録を変更したことで、スペースに余裕ができ、写真をL版の光沢紙に打出し、貼り付けるようになりました。やはり、文字だけよりも絵があると、記録するのも楽しくなります。
誤って余分に印刷した写真を孫に
孫たちと動物園に行った翌日、日々の記録をまとめ、写真を貼り付けようとしました。このとき、誤って余分に印刷してしまいました。同じ写真を貼り付けても意味はありません。一旦は捨てようと思いました。が、考えてみればまだ孫たちが自宅にいました。孫にやろうと思いました。
すでに、動物園で撮影した写真は孫の iPhone の中に収まっています。だから見ようと思えばすぐに見られるはずなのです。必ずしも紙の写真を渡す必要はありません。でも、捨てるよりはいいだろうし、孫も喜ぶだろうからと考えて孫に手渡しました。
モノとして存在することの価値は大きい
写真を受け取った孫は、大喜びでした。自分のお気に入りのサルやゾウの写真を見て「アイアイ」(孫にとってサルのたぐいはすべてアイアイ)「ゾー」と言っていました。その写真そのものは、すでに私の iPad や娘の iPhone で見ているはずなのです。でも、電子データと紙では、写真への見方が違っていました。
簡単に言うと、画面上の写真を観ているとき、孫は、つぎつぎとスワイプして画像を切り替えていました。それに対し、紙の写真を見るときはもっとゆっくりとていねいに、味わうかのような感じで見ていたのです。
絵としては、どちらも同じです。(サイズはちがいますが)
でも、モノとしての存在と画面上のデータとの違いは大きいのではないか? と感じました。
写真を手に持つ、触るということで、手触りや重さを感じる。そこにモノとしての存在感が感じられる。それに対し、電子データである写真は、画面の上をさっと通り過ぎていくという感じなのでしょうか?
TDLの写真を大量に印刷してお土産に持って行く
今日(2021/05/23)、横浜で甲斐バンドのライブがあります。私は、それを聴きに行きます。コロナ対策の関係で、開演時間が繰り上げられました。早く終わるので、娘の家族のマンションに泊めてもらうことにしました。孫へのお土産として、TDL に行ったときの写真を大量にL版の光沢紙に印刷して持って行くことにします。その写真そのものは、すでに孫も見ているはずです。でも、紙というモノの形で見ればまた違うはずです。
孫が喜んでくれるといいなぁと思っています。
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