表現は自分のためにすればいい

句意が読み取れない句にも価値がある。

週一回オンライン句会に参加しています。
兼題が2つあり、その他に3句作ります。9人が参加しているので45句が発表されます。
このオンライン句会では、45句全てに選外、予選、並選、特選の評価をし、長さは問われないながらもすべてに選評をつけることになっています。

先日、選句しているときどうしても句意を読み取ることのできない句がありました。使われている語を検索しても、語と語を組み合わせて検索しても、わかりませんでした。
私は、自分なりに解釈し予選をつけました。他の方はどうなのかなぁなどと思いました。

選句・選評の締切がすぎ、結果が発表されました。
件の句はあまりよい点を得られませんでした。選者のコメントにも「わからない」という意味の言葉が見られました。
筆者のコメントには、その句の句意と作った背景が書かれていました。おそらく100人が100人、そのコメントを読まなければ句意をつかむことはできなかっただろうと思います。

私は、句会の感想を毎回メールで参加者に送るようにしています。(サボることもありますが)
件の句について私は次のように書きました。

ただこの句と作者コメントを読んで思ったのは、句意が必ずしも伝わらないとしてもそれはそれで大きな価値のあることではないか? ということでした。
自身が表現したいことを自身の選んだ手段により表現することはとてもとても価値のあることだと考えます。表現者の最大の目的は表現することなのですから……伝わるか伝わらないかの是非とて表現者自身が決めていいように思えます。(……岡本太郎さんの「今日の芸術」の影響を受けすぎでしょうか?)

表現者は表現したいから表現する。

この極当たり前のことを自分は忘れていたのではないか? と感じました。
自分について言えば、句を作るとき「こうするといい評価がもらえるかなぁ」とか「この語を使うとかっこいい句になるかなぁ。」とか色気を出していました。
逆に「これじゃ、句意が伝わりにくいから変えなければならないかなぁ」と妥協するかのように句を修正することもありました。
私は表現することよりも評価してもらうことの方に気を取られていたのです。
それまで、オンライン句会に参加していてどこか窮屈さのようなものを感じていました。
それが、他者からの評価を気にして作っていたからなのだと気づきました。

表現者は表現したいことを表現したい手段で表現すればいい

件の句の作者はおそらく他の仲間から高得点もらいたいと考えて作ったのではないでしょう。
自分が作りたい句を自分が作りたい手段で作った……それだけのことなのだと思います。
その句意が伝わるかどうか、あるいはどういう評価をされるかどうか、というのは二の次三の次だったのではないか? と考えられます。

今週も、投句の締切が近づいています。今回、私は、この句はあまりよい点を得られないかもしれない、句意を伝えきれないかもしれないという句を2,3投句しました。
これまでだったら、修正したり、他の句に差し替えていたりしたと考えられるような句です。

独りよがりの句と言われるかもしれません。でも、それはそれでよいのだろうと考えています。

表現することの最大の目的は表現すること

評価されるかどうかは二の次三の次と考えるのは自由なのだと思われます。
インターネットが一般的になり、多くの人が批評家化、評論家化した感があります。
それゆえ、自身の行いを選択するとき、人の目を気にするようになりがちです。勿論犯罪行為などに走ってはいけないのですが、少なくとも自分が表現したいことを自分の好きにやってもよいのではないか? と考えられます。

これからは、自分のために句を作る、自分のための写真を撮るということを意識していこうと考えています。

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