以前お世話になった校長さんを囲む会がありました。もう退職されて10年以上経つのですが、今でも当時のメンバーが20人近く集まります。
その校長さん(今は、校長職ではありませんが、私にとってはいつまでも尊敬する校長さんです)の話は、面白くていつもたくさんの学びを含んでいます。
前年、私は校長さんにたずねました。
国語の学習で、俳句や短歌は指導されますが、都々逸は扱われません。なぜでしょうか?
校長さんは、以下の様な話をしてくださったと記憶しています。
都々逸は、作者不詳であり、庶民の文化である。俳句や短歌よりも低く見らているということがある。
今年の会でも、校長さんは、そのことをちゃんと覚えられていて、続きを話して下さいました。
人間には業(ごう)ってのがある。生きていくためにやらずにはいられない悪行だ。都々逸というのは、その業を認めてやっているんだよ。やっちゃいけないようなことなんだが、やってしまう。それを認めてやっているだ。人間の業の肯定をするのが都々逸だ。俳句や短歌は、業を肯定したりしないだろう。学校では悪いことをするなって教えている。人間の業の肯定なんか教えられないだろう。
なるほどなぁと思いました。校長さんは続けました。
人間の業の肯定ってのは、立川談志が言ったんだ。都々逸じゃないけどな。落語は人間の業の肯定って言ったんだ。「赤めだか」を読んだだろう? それにちゃんと書いてある。
立川談春さんの「赤めだか」、私は持ってはおりましたが、まだ目を通しておりませんでした。談春さんが中学生の頃、談志さんの話の中で、この言葉を聴いたことが書かれています。
50歳の半ばを越えて「人間の業の肯定」という言葉のすごさを感じました。建前だけがまかり通るような窮屈な世の中故に、この言葉の重みが強く伝わってきました。
それにしても、落語は人間の業の肯定と言った談志さんと、それをどどいつと結びつけてお話下さった校長さん、すごい! と思いました。
赤めだか、私はテレビ放送を見逃しましたが、書籍はめっちゃ面白いです。
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